切手から見えてきた世界の歴史

1.アルツハイマー病は恐ろしい

 アルツハイマー病は、記憶や思考能力がゆっくりと障害され、進行すると家族さえも認識できないようになり、ほとんどの時間ベッド上で過ごす寝たきり状態になる場合もあります。アルツハイマー病は、高齢者における認知症の最も一般的な原因であり、不可逆的な進行性の脳疾患ですが、残念ながら有効な治療法はありません。現在、アルツハイマー病の治療薬として使用されている医薬品も、アルツハイマー病の病態そのものの進行に変化を与えるものでありません。

 このような状況で、私たちはアルツハイマー病の新薬を開発できないか研究を進めています。どの研究でもそうですが、アルツハイマー病の研究を進める上で重要なことは、研究対象のアルツハイマー病についてどのようなことが分かっているかを知ることです。すなわち、まず、敵を知り、その上で最良の研究計画を立案して、研究を遂行します。

2.アルツハイマー病の研究に関する文献検索(今)

 主要医学系雑誌等に掲載された文献を検索するデータベースは数多く知られていますが、NLM(米国国立医学図書館:National Library of Medicine)内の、NCBI(国立生物 科学情報センター:National Center for Biotechnology Information)が作成しているデータベースPubMed(パブメド)は多数の研究者が利用しています。

 パブメドにアクセスして、Alzheimerと入力すると、実に194,524の文献が抽出されます。2022年度に限っても3,694の文献が発表されています(検索日、2022年3月6日)。私達が、アルツハイマー病関係で特に興味をもっているのはamyloid-β (Aβ) を標的とするモノクローナル抗体薬のAducanumabなので、Aducanumabをキーワードにして検索すると計253論文が見つかり、2022年に限ると36編です。この位の論文数ならば、論文タイトルあるいは抄録に目を通すことは簡単ですし、さらに、雑誌の電子化(電子ジャーナル)が進んでいることもあり、簡単に論文の全文を読むことが可能です。ただし、フリーで全文を読むことはできず有料のものもあり、すべての論文に簡単にアクセスできるわけではありません。しかし、一瞬にしてインターネットで必要な情報を入手できるので、信じられないほど便利な世の中になったと痛感します。

3.アルツハイマー病の研究に関する文献検索(昔)

 40年~50年前に、私は研究生活をスタートしました。その頃は、アルツハイマー病を研究テーマにはしていませんでしたが、やはり、文献検索は重要な作業でした。インターネットでの検索はできないし、電子ジャーナルもなかったので、文献検索は極めて困難な作業でした。図書館を訪れ、紙に印刷された雑誌をパラパラめくり、関係ありそうな文献を探します。しかし、大きな大学でも購入雑誌数はそれほど多くはありませんし、規模の小さな大学などではさらに少ないので、文献検索は難しいです。

 もう一つの文献検索方法は、「手作業(manual)」で、求める情報や文献を探し出すことです。具体的には、「論文のタイトル」や「研究者名、所属」などが書かれた冊子の利用です。通常、何冊かを束にしたものが定期的に回覧されるので、自分のところに回ってくると必死に興味ある論文を探します。しかし、お目当ての文献は全体の中のほんの一部であり、かなり効率の悪い作業です。さらに、冊子に掲載されている論文は世界中で発表されている中の一部ですから、これで良いのかという不安はつきまといます。

 論文タイトルから判断をして、是非、読んでみたいと思っても、所属大学や研究所で雑誌を購入していない場合もあります。今は、雑誌がなくてもインターネットを介してほとんど全ての論文を読むことが可能ですが、インターネットの発達していない時代には、かなり困ってしまいます。手間はかかりますが、そのような時は、論文の著者に直接、外国郵便はがきを出して、論文のリプリントの送付を依頼することです。運が良いと一ヶ月以内にリプリントが封筒に入れられて送られてきます。送られてきた論文を読んでみると期待通りの内容でなかったり、入手まで時間が経過したこともあり研究内容への興味が失せていたりということもあります。

4.ソビエット連邦の解体

 外国の研究者にリプリント依頼する理由は、もう一つあります。アメリカやイギリスなどよく知っている国だけでなく、ほとんど知らない国々からもリプリント(そして切手)が送られてくることです。切手を眺めると、今後も訪れることがないだろう国が身近に感じられ、その国の分化や歴史に思いを馳せることができます。

 先日、久しぶりに蒐集していた切手を取り出し、眺めました。多くの切手が、この40年から50年間に世界で起きたことを想記させます。今は存在しないソビエット連邦の切手も多数ありました。ソビエット連邦は日本の60倍の面積の国土をもつ大国でしたが、1991年、ロシアやウクライナなど15の連邦を構成する共和国が主権国家として独立をして、解体しました。写真は、1960年代、70年代、80年代のソビエット連邦の切手であり、ソビエット社会主義共和国連邦の略称であるCCCPの印刷を見ることができます。

5.ロシアによるウクライナ侵攻

 今、ロシアのプーチン大統領は隣国のウクライナに軍事侵攻しています。プーチン氏は2021年7月論文で、「ロシア人とウクライナ人は一つの民族」と主張しており、ウクライナは単なる隣国ではない。歴史・文化・精神世界で切り離せないロシアの一部だと主張しており、この考えに基づいてウクライナ侵攻という暴挙を決断したと思われます。この軍事侵攻によりキエフをはじめとした都市破壊が進み、多数の人命が失われており、本当に悲惨な状況です。

6.ケニア国連大使のロシア侵攻への非難スピーチ

 193カ国で構成される国連総会は、ロシアを非難し、ウクライナからの即時撤退を求める決議案を141カ国の賛成で採択しました。採択に先立ち各国の国連大使が次々にロシアを非難する演説をしましたが、その中にはケニア国連大使の演説もありました。この演説は、多くの人々に感銘を与えたので、以下に全文(日本語に翻訳)を紹介します。

「この状況は私たちの歴史と重なります。ケニア、そしてほとんどのアフリカの国々は、帝国の終焉によって誕生しました。私たちの国境は、私たち自身で引いたものではありません。ロンドン、パリ、リスボンといったアフリカから遠く離れた場所で引かれたものです。かつての我々の国々のことなど何も考慮せず、彼らは線を引き、分断したのです。 現在、アフリカの全ての国の国境線をまたいで、歴史的、文化的、言語的に深い絆を共有する同胞たちがいます。

私たちが独立をした際に、もしも民族、人種、宗教の同質性に基づいて建国することを選択していたのであれば、この先何十年後も血生臭い戦争を繰り広げていたことでしょう。しかし、私たちはその道を選びませんでした。私たちはすでに受け継いでしまった国境を受け入れたのです。そして、アフリカ大陸での政治的、経済的、法的な統合を目指すことにしたのです。危険なノスタルジアで過去の歴史に囚われてしまったような国を作るのではなく、未だ多くの国家や民族、誰もが知らない、より偉大な未来に期待することにしたのです。私たちは、アフリカ統一機構と国連憲章のルールに従うことを選びました。それは決して国境に満足しているからではなく、平和のうちに築かれる偉大な何かを求めたからです。

帝国が崩壊あるいは撤退してできた国家には、隣国との統合を望む多くの人々がいることを知っています。それは普通のことで、理解できることです。かつての兄弟たちと一緒になり、彼らと共通の目的を持ちたいと思わない人などいるものでしょうか。しかし、ケニアはそうした憧れを力で追求することを拒否します。私たちは、新たな支配や抑圧に再び陥らない方法で、滅びた帝国の残り火から自分たちの国をよみがえらせないといけないと考えています。私たちは人種・民族・宗教・文化など、いかなる理由であれ、民族統一主義や拡張主義を拒みます。我々は今日、再びそれを拒否したいと思います。

ケニアは、ドネツクとルガンスクの独立国家としての承認に重大な懸念と反対を表明します。さらに我々は、この安保理のメンバーを含む強大な国家が、国際法を軽視してきたここ数十年の傾向を強く非難します。多国間主義(multilateralism)は今夜、死の淵にあります。過去に、他の強国から受けたことと同様に、今日も危機に晒されています。多国間主義を守る規範のもとに、再び結集するよう求めるにあたり、私たちはすべての加盟国が事務総長の後ろ盾となるべきだと考えています。また、関係当事者が平和的手段で問題解決に取り組むように求めるべきです。最後に、ウクライナの国際的に認められた国境と領土的一体性が尊重されることを求めます。

7.ヨーロッパ列強によるアフリカ植民地化と独立運動

 国境線を勝手に決められても、それを受け入れ、平和に共存していくため歩みを進めるアフリカの思いと、ロシアを強い言葉で非難したケニア国連大使の演説は、世界中で大きな反響を呼びました。この演説のように、19世紀中頃からアフリカは植民地として脚光を浴びるようになり、ヨーロッパ列強は競ってアフリカの領土化に乗り出し、アフリカでの権益を巡ってヨーロッパ各国の争いは激化しました。1884年、ドイツの首相 ビスマルクの呼びかけで「ベルリン西アフリカ会議(ベルリン会議)」が開催され、この会議でアフリカを植民地支配する際の約束事が決められました。「アフリカ分割」が開始され、ほぼアフリカ全土が分割されました。しかし、1960年代以降は、その分割の中から多くのアフリカに独立国が誕生しました。

 切手の話題にもどりますが、このアフリカの植民地化と、独立国誕生の歴史の一部は切手からも見てとれます。コンゴ王国は16世紀にポルトガルによる征服を経た後に、ベルリン会議でベルギー領(現在のコンゴ民主共和国)、フランス領(現在のコンゴ共和国)、ポルトガル領(現在のアンゴラ)に分けられました。コンゴ共和国は、1969年にコンゴ人民共和国に変更されましたが、1991年には「コンゴ共和国」に戻っています。写真はベルギー領コンゴ(左)とコンゴ共和国(右。その中の一枚には、コンゴ人民共和国と印刷されています)の切手です。

ベルギー領コンゴ
コンゴ共和国

 「ギニア」が国名に含まれる国は、アフリカ大陸に三つあります(アフリカ地図参照)。その一つの「ギニアビサウ」は1974年まで「ポルトガル領ギニア」でした。「ギニアビサウ」の初代の大統領ルイス・カブラルは、ポルトガル政権に対する独立戦争を指揮したアミルカル・カブラルの弟です。ポルトガルからの独立は長い期間を要し、アミルカルが暗殺されるなどなど、多くの尊い命が失われています(アフリカ地図の下、写真左は、ポルトガル領ギニアとポルトガルの切手)。他の二国も同様にヨーロッパの列強から独立を果たしています。ギニア共和国はフランスから1958年に、そして赤道ギニア共和国はスペインか1968年に独立しています(写真中は、スペイン領ギニアとスペインの切手、右は赤道ギニア共和国の切手)。

地図はクリックで拡大できます。

ポルトガル領ギニアとポルトガル
ギニア共和国
スペイン領ギニアとスペイン
赤道ギニア共和国

 下に示す写真はローデシアの切手ですが、現在のアフリカ地図を見てもこの国名は見当たりません。ローデシアは現在のザンビア、ジンバブエを合わせた地域であり、南ローデシアは南の地域で、現在のジンバブエにあたります。一方、北の地域の北ローデシアはイギリスの保護領でしたが、1964年にザンビア共和国として独立しています(この記事、最後の写真)。
 イギリス領の南ローデシアでは、移住してきた白人が少数派支配を維持していました。彼らは、1965年イギリスに対して一方的に独立宣言を行い、白人中心のローデシア共和国として独立しました。しかし、アフリカ人の抵抗と国際社会からの圧力により、1979年にイギリス植民地へ復帰し、さらに1980年にジンバブエ共和国として独立しました。

British South Africa Company(イギリス南アフリカ会社)と印刷されています。 1889年セシル・ローズとアルフレッド・バイトによって設立された特許会社です。このローズの名に因んで、この地域一帯はローデシアと名づけられました。イギリス南アフリカ会社はイギリス女王より特許(ロイヤル・チャーター)を与えられて、同地域の行政や司法権を許された特許会社です。1923年にローデシア自治政府が成立して、会社の支配は終わりましたが、その後も会社は地域の基幹産業を掌握し続けました。

ザンビアの切手

写真の左は、食用キノコのAmanita zambianaです。1980年にザンビアの英国の菌学者によって初めて科学的に記述されました。
独立後の1968年に通貨単位はザンビア・ポンドに代わってクワチャになりました。補助単位はングェー(ngwee)であり、1クワチャ=100ングェーです。切手のnはングェーを示していますが、写真の右側の切手では3nに二重線が引かれ、10nに修正されています。ザンビアでは高いインフレ率により、中央銀行は2013年に1,000クワチャを1クワチャとするデノミネーションを実施しています。

写真をクリックすると拡大できます。

8.最後に

 いずれのアフリカ植民地でも、ヨーロッパ宗主国の言語が公用語とされ、政治においても宗主国の代表が決定権を握るなど、アフリカ独自の文化は軽視されました。切手を眺めながら、アフリカの植民地化と独立運動を知ると、ケニア国連大使の演説の深い意味に心を打たれます。

 著者はゲノムサイエンスや「アルツハイマー病」などを研究しており、アフリカの歴史については知識が乏しく、間違った内容を含むかもしれません。ご指摘していただければ、訂正をしたいと思います。なお、本記事に掲載された切手はすべて私の妻が所有しているものを借用しています。

 

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